フィルハルモニ記

ドイツ文化・思想の人がオペラ・コンサートなどの感想を中心に書いているブログ

バッハ『マタイ受難曲』 ウィーン交響楽団/アーノルト・シェーンベルク合唱団/フィリップ・ジョルダン指揮 ウィーン・コンツェルトハウス 2015年3月29日

osterklangwien2015matthaeuspassion.jpgIn Kooperation mit Wiener Konzerthaus

 

 

Johann Sebastian Bach

Matthäuspassion BWV 244

 

 

Wiener Symphoniker

Arnold Schoenberg Chor

Opernschule der Wiener Staatsoper

Werner Güra, Evangelist (Tenor)

Michael Volle, Christus (Bass)

Julia Kleiter, Sopran

Wiebke Lehmkuhl, Alt

Bernard Richter, Tenor

Gerald Finley, Bassbariton

Philippe Jordan, Dirigent

座席 (3階)右4列10番 

2回公演の2日目

6, 4, 4, 3, 2/ 6, 4, 4, 3, 2(弦)

8, 6, 6, 6/ 8, 6, 6, 6 (合唱) 後ろに少年少女合唱団

 

 ついこの前の『ヨハネ受難曲』(→「バッハ『ヨハネ受難曲』 ウィーン楽友協会 2015年3月18日」)に続いて今日は『マタイ受難曲』。実演は08年3月21日 オペラシティでのバッハ・コレギウム・ジャパン/鈴木雅明と2010年4月10日ベルリン・フィルハーモニーでのベルリン・フィル/ラトルによる記念碑的演奏(→「マタイ受難曲 ラトル指揮 ベルリン・フィル 2010年4月10日 ベルリン・フィルハーモニー)に続いて3回目(→「私の鑑賞履歴1」)。前回からちょうど5年も経つ。

 

 今日の公演は、ホール、演奏団体等を個別に見ればそれぞれは悪くない、というよりむしろ良いのだが、『マタイ受難曲』を演奏するという点から見るとあまり期待できずにいた。聴いてきて実際その通りの公演だった。満足度はかなり低いと言わざるを得ない。

 

 その大きな原因はホール。こうした声楽曲を演奏するにはこのウィーン・コンツェルトハウスは向いていない。空間が大きく、歌唱がしっかり聴こえてこない。それは冒頭のあの素晴らしい楽曲から顕著だった。合唱2が"Wohin?"などと応答するところなど一瞬合唱丸ごと落ちたのかと思うほど聴こえなかった。途中で分かった(と思った)ことは、私は右寄りに座っていて、合唱1は私と対角線上にいて斜めにちょうど体がこちら向きになっているので(ちょうど私の方を向いているので)聴こえやすいが、合唱2は(私と)同じ側にいて(客席から見て)斜め左を向いているので(私の側には)聴こえにくいということ。細かいことだが、空間、特に横幅が広いだけにその影響が強く出るのだろう。合唱団はアーノルト・シェーンベルク合唱団である。優秀さに疑いはない。このホールでの響きを考えてオケは、特に低弦を、もう少し抑えた方が良かったのだろう。ベルリン・フィル/ラトルの時など第1曲目のあまりのすばらしさ、心に訴えかけてくる力の凄さに、今日のこの公演がこの1曲だけだとしてもかまわない、とすら思ったものだったが、今日はまるで拍子抜けだった。

 

29032015matthaeuspassion.jpg

休憩中。空間の広さが特徴。

 

 満足度が低かった2番目の原因はエヴァンゲリストがあまり良くなかったこと。落ち着きがなく不安定で、聴いていて安心感がない。物語、音楽に入り込んでいく態勢がまったくできない。『マタイ受難曲』でエヴァンゲリストの出来が悪いのは致命傷だ。

 これら2つのせいで、充実の3時間となってほしかったのが一瞬にして苦痛の3時間となってしまった。実際苦痛は言い過ぎなのだが、少なくとも聴いている間に、長い、と感じてしまった。

 

 その中でもソプラノのユリア・クライターとアルトのヴィープケ・レームクールは良かった。2人が歌う第27曲の二重唱("So ist mein Jesus nun gefangen")はとても美しかった。合唱もひとつとして歌う時は良く、しっかり聴かせてくれた。

 

 指揮者にも触れなければならない。フィリップ・ジョルダンの指揮は今日が初めてだった。無名であれば、感想無し、ノーコメントで済ませたが、有名なので敢えて書く。指揮台に立っていることにほとんど意味がないと言ってよく、今日彼がいる意味があったとすればただの交通整理係としての意味しかなかった。いや、むしろその任すら果たせておらず、(一見華麗に見える(?)がしかし実のところ)稚拙なバトンテクニックによってアンサンブルに悪影響をもたらしている。オケ、合唱団、ソリストのアンサンブルの不揃いがどれほどこの指揮者に起因していたことか。第13曲のアリアでのソプラノの歌いにくそうなこと。反復する音型が出てきてそれを強調するように繰り返し合図を出すのだが、一回余計に出してしまって一人で恥ずかしい空振り。合唱とファゴットが弱音で出てくるところも拍を示して音が出るまで我慢できないのでもう一度叩いてしまい、結果ファゴットが混乱しひどくずれる、等々。彼に盛大な拍手を送る聴衆も、まったく何を観て聴いているのか。言ってみれば、今日は本拠地で手兵を率いての演奏会。上に満足度が低い理由としてホールを挙げたが、演奏旅行で初めてのホールに来たというわけではなく、本拠地なのだから本来もっとやりようがあったはず。ただ、彼はそれを問題として感知すらしていないのであろう、実際に鳴っている音の響きがあれなのだから。今日感じた彼の指揮者としての底の浅さは、『マタイ受難曲』だったからとか、バッハだったからと場合分けできる性格のものではなく、知名度のわりには注目するに及ばない指揮者であると言ってよいと私は思う。

 

 今日の演奏会で本当に感動した局面はほぼ皆無であった。(結果的に、ベルリン・フィル/ラトルの『マタイ受難曲』(2010)がどれだけすごかったかの傍証としての参考データが自分の中で増えただけといったところとなってしまった。)

 ときどき忘れてしまうこともあるが、良い演奏会に巡り合うのはまさに一期一会。心が打ち震えるほどの感動を覚える演奏会に出会えたならそれはとてつもなく貴重な経験で、ありがたいことで、幸せなこと。

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