フィルハルモニ記

ドイツ文化・思想の人がオペラ・コンサートなどの感想を中心に書いているブログ

モーツァルト『コジ・ファン・トゥッテ』 フォルクスオーパー 2015年6月26日

f:id:jutta_a_m:20150821114219j:plainWolfgang Amadeus Mozart

Così fan tutte

Regie | Bruno Klimek
Bühnenbild | Hermann Feuchter
Kostüme | Tanja Liebermann
Dirigat | Wolfram-Maria Märtig

Fiordiligi | Caroline Wenborne
Dorabella | Dshamilja Kaiser
Guglielmo, Liebhaber Fiordiligis | Josef Wagner
Ferrando, Liebhaber Dorabellas | Jörg Schneider
Despina, Kammerzofe | Rebecca Nelsen
Don Alfonso, Philosoph | Mathias Hausmann


In deutscher Sprache mit deutschen Übertiteln(ドイツ語上演ドイツ語字幕付き)
Deutsche Übersetzung von Kurt Honolka
Premiere am 15. Mai 2015
7. Vorstellung

座席 1階右4列2番

 モーツァルトの『コジ・ファン・トゥッテ』、初演は1790年1月26日に、昨日も行ってきたブルク劇場でモーツァルトの指揮によって行われた(当時は現在地への移設前→ブルク劇場について)。当時の公演は、2月20日に皇帝ヨーゼフ2世が死去し、劇の上演などが許されなかったため、5回の上演の後に打ち切りとなった。その後、同年6月から8月の間に5回の上演があった。モーツァルトの生前にはその他に、プラハ、ドレスデン、フランクフルト、マインツ、ライプツィヒで上演された。(プログラム55頁) 

 『コジ・ファン・トゥッテ』を観るのは、2013年6月に新国立劇場で観て以来ちょうど2年ぶり(→「モーツァルト『コジ・ファン・トゥッテ』 2013年6月12日 新国立劇場」)。それと、フォルクスオーパーに来るのは今日が初めてだが、3年前に一度だけ来日公演を観たことがある(→「オットー・ニコライ 『ウィンザーの陽気な女房たち』 ウィーン・フォルクスオーパー 2012年5月18日 上野」) 

 ここフォルクスオーパーはドイツ語で上演する(ドイツ語字幕付き)。例えばベルリンのコーミッシェ・オーパー(Komische Oper)も基本的にドイツ語で上演する。コーミッシェ・オーパーでは、オッフェンバックの『ホフマン物語』や『ラ・ペリコル』などフランス語のオペラをドイツ語で観た。『ホフマン物語』は昔からドイツ語で上演されていて探せばドイツ語版の録音もわりと見つかるはず。クラインザックの歌などは特に(„Es war einmal am Hof von Eisenack“)。

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© Barbara Pálffy

 このプロダクションは先月5月15日にプレミエを迎えた新演出。オケはへたくそだったが、演出がなかなか面白かった。

 前半は劇のプローベ、稽古をしていることになっている。だから、6人の登場人物は出番に合わせて順に登場してくるのではなく最初から揃っている。序曲が始まるとあまり時間を置かずに幕が開いて、アルフォンソとデスピーナが出てきて机と椅子を用意し、全員が出揃ったところで台本=スコアが手渡されアルフォンソが舞台の模型を机の上に置き劇の進行について説明を始める。なぜ劇を演じるという設定にしたか、それは恋人と離れたその日のうちに変装したとはいえさっきまで会っていた人間に気づかないという不可解さにもっともらしさを与えるためという(プログラム9-10頁)。劇を演じていることにすることできれいに正当化できると。なるほどと思える。

 後半は実際に演じているという設定なのだが、最後の方は演じているのか本当なのかわからなくなってくる。 

 プログラムに収められている演出家Bruno Klimekとプレミエ時の指揮者Julia Jonesへのインタビューが面白いので冒頭だけすこし紹介したい。 

まず根本的な質問です。『コジ・ファン・トゥッテ』は喜劇(Komödie)ですか?

Bruno Klimek:『コジ・ファン・トゥッテ』はどうみても喜劇(Komödie)ですよ!それでもその中で真面目であったり問題含みであったりする物事が扱われていて、それらが痛みを伴うことさえもあります。こうしたことはほとんどすべての喜劇(Komödie)で起こることです。もし喜劇(Komödie)が、首尾よく終わることをその定義とするならば、このオペラには少なくとも作曲されたハッピーエンドはあります。実際それが「ハッピー」なのかどうかは見ればわかるでしょう。

Julia Jones:英語にはコメディー(comedy)という言葉がありますが、それは何か別のものを表しています。私としては、『コジ・ファン・トゥッテ』は喜劇(Komödie)であってコメディーではない、と言いたいですね。そこには楽しく愉快な瞬間もありますが、しかしそれは悲喜劇的(tragikomisch)でもあります。喜劇(Komödie)はときに残酷で、非情な現実です。

[...]この演出ではひとつ別の面がはめ込まれていますが、つまり劇の中に劇を入れるという...。

BK:『コジ・ファン・トゥッテ』では、様々な出来事がもっともらしく経過していくようにしなければならないという問題があります。つまり第一に、なぜ女性たちは戦場に行くところを5分前に見ていながら変装して再びやって来る自分の恋人を見抜けないのか。そして第二に、なぜ若い男性2人は自分たちがドン・アルフォンソが仕掛けた罠にはまっているというようには思わないのか。

 こうした状況をもっともらしくするために、演劇というシチュエーションを想定することは役に立ちます。歌手たちは劇の練習を始めます。まずは本読みから始め、それから立ち稽古に移ります。私たちは登場人物たちに慣れ、そして彼/女たちが変身していくことにも慣れることになります。そのことによってこの作品の中にある変装がもっともらしくなり、新たに説明する必要がなくなります。そして ―劇場では実際にそうであるように― 役をしっかり身につけることによって真実味が生まれてきます。そこで、登場人物たちがこの「あたかも~かのように」[演じること]の虜になるということが起こり得るのです。突如として、何が本当で何が演じられているのかがもはや区別できなくなります。最後には彼/女たちは、自分たちが何かを得たということをしっかり見て取らなければなりません。それはもはや振り払って捨ててしまうことができない何かなのです。


(„Morgen ist ein neuer Tag. Die Dirigentin Julia Jones und der Regisseur Bruno Klimek im Gespräch mit der Dramaturgin Helene Sommer“, Programmheft S. 9-10. 翻訳は引用者(=私)による)


 実際に観て、劇進行や舞台全体の細かいところをもっと突き詰めればかなり良い演出だと思った。核になっている視点が面白い。 

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© Barbara Pálffy 劇について説明するアルフォンソ(今日のアルフォンソ役は別の歌手。中央の白い線は本のとじ部によるもの) 

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(休憩中)

 歌手は特別上手いわけではないのだが、わりと楽しそうに歌っているのでこっちも楽しみながら観ていた。ソプラノが登場した時、なかなかの恰幅の良さを見ておいおいと思っていたがそのうち普通に観ていた。途中から、このソプラノどっかで見たなぁとずっと引っかかっていて、帰宅して確認してみるとこの前観たウィーン国立歌劇場/ラトル指揮の『神々の黄昏』でグートルーネを歌っていたソプラノだった。あの時はステファン・グールドなど周りがかなり大柄だったのであまり気にならなかったが。あと、今日は席が近いと言うのもあったかもしれない。逆に言うと(?)、実力はあると言うこと(褒めてます)。

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© Barbara Pálffy (このパターンはわりとあるが)アルフォンソとデスピーナも恋人同士のように振る舞い、3組の恋人たちによる演劇上演といった様相。

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© Barbara Pálffy

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 ドイツ語訳の歌詞はなかなか良かった。聴いていて気持ち良いところ多々あり。いくつか印象に(と記憶に)残っている歌詞。

„Eine schöne Serenade will meiner Göttin bringen.“ (Ferrando)

„Werd' ich auch mit eingeladen?“ (Alfonso)

„Ja, Signor, sind Sie auch dabei.“ (Guglielmo & Ferrando)

„Nur allein der Tod beendet, was die Liebe einst gebar.“ (Fiordiligi)
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 (多分)今シーズン最後の鑑賞。一番好きなオペラで締めくくることになった。美しい音楽に彩られた良い晩だった。

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(休憩中。前の道路を路面電車が通るたびに音(地響き)が上演中も劇場内に聴こえてくる。環境はかなり悪い)

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