フィルハルモニ記

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アーノンクール『音の話法としての音楽―新しい音楽理解への道』(2)「私たちの生活における音楽」読解(抜粋)

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そのような単に「美しい」だけの音楽など、かつて一度も存在したことはありませんでした。

そうして誰もが、音楽の価値と演奏について判断し意見を述べることは正当でみずからにその資格があると感じてしまっているのです。


「私たちの生活における音楽」

 中世からフランス革命に至るまで、音楽は私たちの文化、つまり私たちの生活の支柱のひとつに数えられていて、これを「理解する」ことは一般教養に属していました。今日では、音楽は単なる飾りとなっています。むなしい晩を、オペラや演奏会に行くことで飾りつけ、公衆のお祭り気分を生み出したり、あるいはラジオによって家での孤独の静けさを追い払ったり活気づけたりするための飾りとなったのです。その結果、矛盾をはらんだ事態が生じることになりました。つまりそれは、今日の私たちには量的にはかつてよりはるかに多くの、それどころかほとんど絶え間なく、音楽があるが、一方でそれは私たちの生活にとってもはやほとんど何も意味していない、という事態です。ちっぽけな飾りです!

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 音楽の意味がこのように完全に変化したわけですが、それは過去2世紀の間に次第に速度を増しながら起こりました。この変化には、同時代の音楽に対する向き合い方の変化、それどころかおそらく芸術全般に対する向き合い方の変化が結びついています。音楽が生活の本質的な要素であったかぎりにおいては、音楽はその時代から生まれてくるものでした。音楽は言い表せないものの生き生きとした言葉で、それは同時代人によってのみ理解されうるものでした。音楽は人間、すなわち聴き手を変化させ、一方で音楽家をも変えました。音楽は、人が繰り返し新しい家を建てなければならないように、繰り返し新しく創造されるものだったのです。それも、新しい生活の仕方、つまり新しい精神性に繰り返し対応しつつ。そうして人は古楽も、すなわち過去の世代の音楽ももはや理解することができなくなり、もはや上手く役立てることができなかったのです。人はその高い芸術的巧みさに感嘆したのでした。

 音楽がもはや私たちの生活の中心に位置しなくなって以来、こうしたことのすべてが違ったふうになりました。つまり[現在では]、音楽は飾りとして第一に「美しく」あるよう求められているのです。それは決して不快感を与えるようなものであってはならず、私たちを恐怖に陥れてはならないのです。現代の音楽はこの[第一に美しくあれという]要求を満たすことができません。なぜなら、現代の音楽は少なくとも、あらゆる芸術がそうであるように、その時代(つまり現代)の精神的な状況を反映しているからです。誠実に、情け容赦なく私たちの精神的な状況としっかり向き合うことはしかし、ただ美しいだけではありえないのです。すなわち、それは私たちの生活の中に割って入ってきて、それゆえ不快感も与えるのです。こうして矛盾をはらんだ事態が生じることになりました。人が現代の芸術から顔をそむけるのは、それが不快感を与えるから、場合によっては与えなければならないからである、という事態です。しかし人はしっかり向き合うことを望みません。望むのはただ、単調な日常から休息し回復するための美だけなのです。こうして芸術は、特に音楽は、単なる飾りとなりました。そして人は歴史上の音楽、古楽[=以前の音楽]の方を向くようになりました。ここに美と調和を見出すのです。人はこれを求めています。

 私の見解では、このように古楽へ関心を向けることは、多くの明白な誤解によってのみ起こりえました(私が古楽という語でもって意図しているのは、私たち生きている世代によって生み出されたのではないあらゆる音楽のことです)。つまり、私たちはただ「美しい」音楽だけを用いることができる、ということですが、それは現代が私たちに与えることのできないものです。そのような単に「美しい」だけの音楽など、かつて一度も存在したことはありませんでした。「美」はあらゆる音楽の構成要素のひとつです。それは、他のあらゆる構成要素を素通りして、つまりそれらを無視してはじめて決定的な基準とすることができるものなのです。私たちが音楽を全体としてはもはやまったく理解することができなくなってから、おそらくもはや理解しようともしなくなってからはじめて、音楽をその美しさへと還元し、あたかもつるつるにアイロンがけするようなことが起こりえたのでした。[...]。

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 音楽を美へと還元すること、それと同時に一般的に理解できるものへと還元することがフランス革命の時代に起こったことは偶然ではありません。音楽を、誰によってでも理解されうるのだ、という程に感情的なものへと単純化することが試みられた時期は歴史上繰り返し現れました。こうした試みはすべて失敗し、新しい多様さと複雑さに行き着くことになりました。誰にでも理解できる、ということが音楽においてあり得るのは、音楽が原始的なものに還元されるかあるいはすべての人が音楽の言語を習得するか、どちらかの場合だけです。

 音楽を誰にでも理解できるものに単純化するという、きわめて大きい影響をもたらしたこの試みはフランス革命に続いて起こったことです。当時、大きな国家という枠組みにおいて初めて、音楽を新しい政治的理念に従わせ利用するということが試みられました。コンセルヴァトワールによって緻密に考え出された教育プログラムは私たちの音楽史上で最初の画一化でした。西洋音楽を学ぶ音楽家たちは今日でもまだこの方法に従って世界中で教育され、そして聴き手たちには ―同様の原理に従って―、音楽を理解するために音楽を学ぶ必要はないのだ、と説明されています。ただ純粋に美しいと思うこと、それがすでにすべてなのだ、と。そうして誰もが、音楽の価値と演奏について判断し意見を述べることは正当でみずからにその資格があると感じてしまっているのです。この姿勢は、革命後の音楽にはともすれば通用することはあっても、それ以前の時代の音楽には決して通用しないものなのです。

 私がきわめて深く確信していることは、ヨーロッパの精神性の存立にとって、私たちの文化とともに「生きる」ことが決定的に重要である、ということです。これは、音楽に関して言えば、2つの活動を前提とします。

 ひとつ目。音楽家たちは新しい方法、あるいは200年前の時代に結びついた方法によって教育される必要がある。私たちの音楽学校では、言語としての音楽ではなく、音楽を生み出す技術だけが学ばれています。それは技術信仰の骸骨で、そこに生命はありません。

 ふたつ目。音楽の一般教育は新しく考え抜かれ、そしてそれにしかるべき位置を認め与えなければならない。そうすることで人は、過去の偉大な作品を新しく見ることになるでしょう、それもそれらの作品が持つ掘り下げ揺さぶり変えていくような多様さの中で。そしてまた、新しいものに再び前向きになることでしょう。

 [...]。

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* Nikolaus Harnoncourt: „Die Musik in unserem Leben“, in: ders.: Musik als Klangrede. Wege zu einem neuen Musikverstäntnis, dtv und Bärenreiter, 1985 (zuerst 1982, Residenz-Verlag), 9-12頁、抜粋。翻訳は私による。


((3)に続く)

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