読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

フィルハルモニ記

ドイツ文化・思想の人がオペラ・コンサートなどの感想を中心に書いているブログ

アーノンクール『音の話法としての音楽―新しい音楽理解への道』(3)「私たちの生活における音楽」解題―「私たち」と私たち

書籍(音楽関連)

f:id:jutta_a_m:20150821114224j:plain
そのような単に「美しい」だけの音楽など、かつて一度も存在したことはありませんでした。

そうして誰もが、音楽の価値と演奏について判断し意見を述べることは正当でみずからにその資格があると感じてしまっているのです。

私がきわめて深く確信していることは、ヨーロッパの精神性の存立にとって、私たちの文化とともに「生きる」ことが決定的に重要である、ということです。

解題

 1954年に公表されたアーノンクールの論述「私たちの生活における音楽」は、コンツェントゥス・ムジクスのいわば「クレド」(信条)であり*1、アーノンクールという音楽家のマニフェスト的論述と言える。アーノンクールが(特にコンツェントゥス・ムジクスと)行ってきた音楽活動がここに見られる問題意識に貫かれたものであることは誰もが納得するだろう。それは論述の発表から半世紀以上経った今も通用する問題意識である。いやむしろ、現在においてこそなおさら強く意識されるべきものと言える。その理由のひとつには、当時と比較にならないほど多くの再生機器・媒体が現れ、音楽がますます「飾り」になりやすくなっていることが挙げられる。もうひとつのより本質的な理由は、アーノンクールの問題意識の根本に関わるものである。この論述は書かれてから半世紀以上たったわけだが、それがなぜ今も重要かと言えば、時が経てば経つほどバッハやモーツァルトの時代から遠ざっていくからであり、その時代の音楽言語は「今」の人々にとってより異質なものになっていくからである。すなわちアーノンクールが指摘する問題は、その問題意識の由来からして、時が経てば経つほど顕著になる性質のものであり、その時代ごとに繰り返し問い直されるべき問題であると言うことができる。
----------
* 後記参照。

 考察の方向としては、では何に気をつけ、どのように演奏すべきか、といった問題に立ち入っていくことになるわけであるが、この論述を読んで私が感じたことは別にもうひとつある。それは、「私たち」に私たちは入っていない、ということである。このことは、終わりの方に見られる「私がきわめて深く確信していることは、ヨーロッパの精神性の存立にとって、私たちの文化とともに「生きる」ことが決定的に重要である、ということです」という一文を読むと特にはっきりと感じさせられる。

「私たち」と私たち

 アーノンクールの論述にあるのは、ヨーロッパ人によるヨーロッパ文化に対する問題意識だ。アーノンクールが言う「私たち」(=ヨーロッパ人)に私たち(日本人)は入っていないのである。「私たち」とは「彼ら」である。少し書き換えながら振り返ってみるとこうなる。

・「[ヨーロッパの歴史において]中世からフランス革命に至るまで、[西洋]音楽は彼ら[ヨーロッパ人]の文化、つまり彼ら[ヨーロッパ人]の生活の支柱のひとつに数えられていて、これを「理解する」ことは[ヨーロッパの]一般教養に属していました」

・「[ヨーロッパ人である]アーノンクールがきわめて深く確信していることは、ヨーロッパの精神性の存立にとって、彼ら[ヨーロッパ人]が自分たちの文化とともに「生きる」ことが決定的に重要である、ということです」

 アーノンクールの論述は、日本人が日本の伝統芸能について語っているようなものである。ここで意識すべきは、クラシック音楽は彼らの伝統芸能であって、私たちにとっては本来きわめて異質なものであるということだ。そこで、このアーノンクールの論述を日本人と西洋音楽という視点から(そして普段私が持っている問題意識から)読みかえて/書き換えて解題を締めくくることにしたい。

((4)に続く)


|3|

Musik als Klangrede: Wege zu einem neuen Musikverstaendnis

Musik als Klangrede: Wege zu einem neuen Musikverstaendnis

古楽とは何か―言語としての音楽

古楽とは何か―言語としての音楽

TOP