フィルハルモニ記

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アーノンクール『音の話法としての音楽―新しい音楽理解への道』(4)「私たち」の読みかえの試み―「私たち日本人の生活における西洋音楽」


そうして日本のクラシック音楽ファンの誰もが、西洋音楽の価値と演奏について判断し意見を述べることは正当でみずからにその資格があると感じてしまっているのです。


*以下の文章はアーノンクールが書いたものではありません。アーノンクール『音の話法としての音楽―新しい音楽理解への道』の記述をもとに私が読みかえて書いた文章です。

アーノンクール「私たちの生活における音楽」における「私たち」の読みかえの試み


「私たち日本人の生活における西洋音楽」

 明治維新から現在に至るまで、西洋音楽は私たちの文化、つまり私たちの生活の支柱のひとつに数えられていて、これを「理解する」ことは高尚な教養に属しています。しかし実のところ、それは単なる飾りとなっています。数えきれないほどのCDやDVDを所有したり、毎週末行くだけでは足りないほど年に何回もオペラや演奏会に行ったりして詳しくなることで、自分が高尚な人間であることをアピールするための飾りです。その結果、矛盾をはらんだ事態が生じることになりました。つまりそれは、今日の私たちには量的にはかつてよりはるかに多くの、それどころかほとんど絶え間なく、西洋音楽があるが、一方でそれは私たちの生活にとってほとんど何も意味していない、という事態です。ちっぽけな飾りです!

 西洋音楽はこのように日本でも広まったわけですが、それは過去1世紀あまりの間に次第に速度を増しながら起こりました。このことは、国内の音楽に対する向き合い方、それどころかおそらく芸術全般に対する向き合い方を変化させました。西洋音楽が遠く離れた西洋だけのものであったかぎりにおいては、音楽はその時代から生まれてくるものでした。音楽は言い表せないものの生き生きとした言葉で、それは同時代人によってのみ理解されうるものでした。西洋音楽は日本の聴き手を変化させ、一方で日本の音楽家をも変えました。しかし西洋音楽も、人が繰り返し新しい家を建てなければならないように、繰り返し新しく創造されるものだったのです。それも、新しい生活の仕方、つまり新しい精神性に繰り返し対応しつつ。そうして日本人は雅楽などの伝統的な音楽を、すなわち過去の世代の音楽をもはや理解することができなくなり、もはや上手く役立てることができなくなったのです。人はその異質さに困惑するのです。

 西洋音楽が私たちの生活の中心に位置するようになって以来、こうしたことがより一層推し進められました。つまり、音楽は飾りとして第一に「本場らしく」あるよう求められているのです。それは決して不快感を与えるようなものであってはならず、私たちを恐怖に陥れてはならないのです。日本のクラシック音楽界は、第一に本場らしくあれというこの要求を満たすことができません。なぜなら、日本は文明開化以来、西洋からクラシック音楽をはじめとするありとあらゆる文化を取り入れてきたものの、それらはいまだに必ずしも根付いていないからです。誠実に、情け容赦なく日本のクラシック音楽界としっかり向き合うことはしかし、ただ楽しいだけではありえません。すなわち、それは私たちの西洋音楽、西洋文化に対する根本的な理解の浅さを直視させることにもなり、それゆえ不快感も与えるのです。こうしてある意味で至極まっとうな事態が生じることになりました。日本人が日本のクラシック音楽界から顔をそむけるのは、その水準が本場と比較して劣っていて、場合によってはそれが不快感すら与えるからである、という事態です。しかし日本人はしっかり向き合うことを望みません。望むのはただ、単調な日常から休息し回復するための美だけなのです。こうして芸術は、特に音楽は、単なる飾りとなりました。そして日本のクラシック音楽ファンは海外の、欧米の演奏家・団体の方を向くようになりました。ここに伝統とブランドを見出すのです。人は「来日」を求めています。

 私の見解では、このように海外へ関心を向けることは、多くの明白な誤解と盲信によってのみ起こりえました(「海外」という語が日本で意味しているのは、主に欧米のことです)。つまり、私たちはただ本場の音楽を聴きたい、ということですが、それは日本のクラシック音楽界が私たちに与えることのできないものです。日本にはそのような本場のクラシック音楽など、かつて一度も存在したことはありませんでした。伝統はあらゆる音楽を支える構成要素のひとつです。それは、他のあらゆる構成要素を素通りして、つまりそれらを無視してはじめて決定的な基準とすることができるものなのです。私たちは西洋音楽がきわめて異質なものであるということを理解せず、おそらく理解しようともしていないがために/していないにもかかわらず、西洋音楽をその伝統とブランドへと還元し、欧米の有名な演奏家・オーケストラ・指揮者のCDを買い漁り、「本場だから」と言って何万円もする来日公演のチケットを競って買い求めるようなことが起こりえるのです。

 西洋音楽を伝統とブランドに還元すること、それと同時に海外、すなわち欧米に追従することが明治維新後の時代に起こったことは偶然ではありません。西洋音楽は本来きわめて異質なものであり、その理解にはその言語を学ばなければならないという問題意識が日本のクラシック音楽ファンたちの間で本格的に育まれた時期は日本文化史上いまだ現れていません。こうした問題意識なく西洋音楽をただ量的にたくさん聴くことは偏った西洋信仰を生み出し、きわめて膠着した歪んだ状態に行き着くことになりました(日本人は多かれ少なかれ今も欧米にコンプレックスを抱えています)。どれだけたくさん西洋音楽を聴いても、それが誰にでも理解できるとは限りません。日本人の誰にでも理解できる、ということが西洋音楽においてあり得るのは、西洋音楽が原始的なものに還元されるかあるいはすべての日本人が西洋音楽の言語を習得するか、どちらかの場合だけです。

 西洋音楽を日本でも演奏し聴けるようにするという、きわめて大きい影響をもたらした試みは明治維新に続いて起こったことです。当時、大きな国家という枠組みにおいて初めて、音楽を新しい政治的理念に従わせ利用するということが試みられました。中央政府によって富国強兵の旗印のもと緻密に考え出された教育プログラムは私たちの日本史上で最初の画一化でした。西洋音楽を学ぶ日本の音楽家たちは今日でもまだこの方法に従って教育され、そして聴き手たちには ―同様の原理に従って―、西洋音楽を理解するために西洋音楽を学ぶ必要はないのだ、と説明されています。ただ純粋に美しいと思うこと、それがすでにすべてなのだ、と。そうして日本のクラシック音楽ファンの誰もが、西洋音楽の価値と演奏について判断し意見を述べることは正当でみずからにその資格があると感じてしまっているのです。この姿勢は、自分が西洋音楽に詳しい高尚な人間であるとアピールすることに役立つことはあっても、真の異文化理解としては決して通用しないものなのです。

 私がきわめて深く確信していることは、日本の精神性の存立にとって、ヨーロッパ文化はそもそもきわめて異質なものであるという意識の元にそれとともに「生きる」ことが、決定的に重要である、ということです。これは、西洋音楽に関して言えば、2つの姿勢を前提とします。

 ひとつ目。西洋音楽はきわめて異質なものであるということを自覚し自省し、異文化理解の観点を持ちつつヨーロッパの文化・言語と結びついた仕方によって西洋音楽と向き合う必要がある。私たちの学校では、言語としての西洋音楽ではなく、はじめから傑作として、そして西洋の「天才」作曲家たちによって創造されたものとしてだけ学ばれています。それは西洋信仰の骸骨で、そこに真の異文化理解はありません。

 ふたつ目。西洋音楽・文化の一般教育は新しく考え抜かれ、そしてそれにしかるべき位置を認め与えなければならない。そうすることで人は、過去の偉大な作品を新しく見ることになるでしょう、それもそれらの作品が持つ私たち日本人の価値観・世界観を掘り下げ揺さぶり変えていくような多様さの中で。そしてまた、日本の音楽にも再び前向きになることでしょう。

***

 西洋音楽というきわめて異質なものに相対しているという意識。例えば小澤征爾氏はこの意識をはっきり持っていました、みずからはクラシック音楽の世界における異邦人だと。音楽家でも鑑賞者でも、もしこのことを自分の内側から湧き出てくる問題意識として痛感していないのなら、本当に向き合っているとは言えません。もしそうなら、それはまだ「飾り」なのです。


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