フィルハルモニ記

ドイツ文化・思想の人がオペラ・コンサートなどの感想を中心に書いているブログ

バレンボイム/シュターツカペレ・ベルリンのブルックナー・ツィクルス 2016 東京―この歴史的な出来事について

【記事の内容】

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© Monika Rittershaus/Staatsoper Berlin

バレンボイム/SKBの歴史的なブルックナー・ツィクルス 2016 東京

 2016年2月、サントリーホールでシュターツカペレ・ベルリン/バレンボイムによるブルックナー交響曲(&モーツァルトピアノ協奏曲)ツィクルスが行われた。この連続演奏会はきわめて歴史的な出来事だった。私は(今ウィーンにいるので)聴けなかったが、記録としていくつか記事などを紹介しつつまとめた記事を書きたい*0。いかなるツィクルスだったのか、このツィクルスはどのように位置づけられ得るのかをイメージするのに役立てばと思う。

 私は以前このブログの中で以下のように書いた。

シュターツカペレ・ベルリン/バレンボイムは2016年2月に東京で第1番から第9番までのブルックナー交響曲ツィクルス演奏会(11日間で9つの演奏会)を行う。プログラム(第5、7、8番以外の)前半はモーツァルトのピアノ協奏曲、すべてバレンボイムによる弾き振り。これと同様のツィクルスを2012年6月にウィーンで行っている。2016年2月、これを2番目の都市として東京で敢行する。本拠地のベルリンですら第4番以降の上記記事のツィクルスしかやっていない。日本の(のみならず世界の)演奏会史上に残る演奏会になる。(本ブログ記事「シュターツカペレ・ベルリン/バレンボイム指揮/アルゲリッチ ウィーン楽友協会 2015年9月20日」)

 私は2010年にベルリンで同コンビのブルックナー(&ベートーヴェン)・ツィクルスを聴いた。その時は4番以降の6曲の連続演奏会で、組み合わせはやはりバレンボイム弾き振りによるベートーヴェンのピアノ協奏曲全5曲とヴァイオリン協奏曲(ツィンマーマン独奏)。全6公演をベルリン・フィルハーモニーで聴いた。会場をぱんぱんに埋め尽くす聴衆と熱演を繰り広げるオケとバレンボイム。凄まじい熱気に包まれた連続演奏会だった。(この時のブルックナーはすべてBlu-ray/DVDとなって発売されている。記事一番下参照)

 上の引用の中でも触れているように、2012年6月に同コンビはウィーンで1番から9番までのブルックナー交響曲ツィクルスを敢行した*1。そして2016年2月に同じプログラムで第2回目を行った。場所は本拠地ベルリンでもなくヨーロッパの他の都市でもなく、東京だった。凄いことだ。

 ウィーン・フィルやベルリン・フィル、そのほかの有名オーケストラも2年に一度くらいは日本に来る。だがこのツィクルスはそうした「来日公演」ひとつとは歴史的意義が違う。今年5月に東京でベルリン・フィル/ラトルによるベートーヴェン交響曲ツィクルスがあるが、歴史的意義という観点から見ればかなりの違いがある*2。今回のツィクルスはそれほどの歴史的出来事だった。*3 

 東京の聴衆は、世界の(これまでのところウィーン以外の)都市が経験したことのない歴史的演奏会に行く機会を得て、歴史的出来事を共体験することができたのだ。*4

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*0 本当はもっと前にこのツィクルスがどれほど歴史的な出来事で重要かを書いて、みんな行ってね!と言って行けない自分の想いを(勝手に)託したかったのだが...。実際に客席の埋まり具合は決して高くなかったと聞く。(チケットは高かったが)なんともったいないことか。私がここに何を書いたところでほぼ何の影響もないことはわかっているが(でも「バレンボイム ブルックナー」などの検索ワードでこのブログに来ていた/来る人も多い)、もっと「他の公演を諦めてでもこのツィクルスは絶対行くべし!」と叫ばなければいけなかったと一人で勝手に反省している。
*1 同じオケと指揮者でこれほど短期間に集中してブルックナー交響曲の連続演奏会を行うのは世界の演奏会史上で初めてだったのではないか。しかもバレンボイム程の指揮者とシュターツカペレ・ベルリンによる演奏。
*2 すでにベルリンで2回、パリ、ウィーン、ニューヨークでツィクルスを行ってからの東京公演(ツィクルスを行う限られた都市に東京が入っていること自体とてもすごいことだが)。ブルックナーの場合、現実的な問題に曲の規模があると言える(ベートーヴェンは第9番以外1公演で2曲演奏できるため5日連続公演で済むのが大きい)。
*3 ツアー自体も5週間に渡るアジアツアー。オケの数百年の歴史上最大の演奏旅行だった。
*4 ブルックナーを聴く機会としてだけではなく、このツィクルスを機にバレンボイムの評価が俄然上がったのではないかと思う。日本ではバレンボイムはこれまで必ずしも高く評価されてこなかったきらいがあった、気がする(がどうだろうか。バレンボイムを別格の天才、真の巨匠という程に高く評価していた人は少なかったのではないか)。今回のツィクルスでバレンボイムが本当に真の巨匠として日本の多くの人に認識されることになったと思う。



注目度の高さ

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Gruppenfoto: Die beiden Orchestervorstände Susanne Schergaut (Geige), Volker Sprenger (Solo-Bratsche), die Dirigenten Daniel Barenboim und David Afkham (v.l.) Foto: Fuji Television

 どれほど歴史的な事であって、注目度が高かったかはこのような大きな記者会見が行われたこととその様子からうかがえる。また、この会見がドイツでも以下のように報じられていることがその注目度の高さを物語っていると言える。ウィーン・フィルやベルリン・フィルでも「いつもの来日公演」ではこれほどの大事にはならないだろう。


 約50名の報道関係者が集まったこの記者会見でバレンボイムは、このツィクルスが日本おける初めてのブルックナー・ツィクルスであることに触れ、「シーズンに2回か3回ブルックナーを聴くとそれぞれの交響曲の共通点が聴こえるが、ツィクルスで聴くと違いが聴こえてくる」と述べたとのこと。

 また、バレンボイムが「50年前に[日本の]聴衆の集中力と静けさにどれほど驚かされたか」を覚えているということも書かれている。それについていろんな人に質問し様々な答えが返ってきたというが、バレンボイムは自分の見解を持っていると。「おそらく私たちに対する敬意があらゆる精神的なものと結びついているということと関係しているのではないか。聴衆は、何か重要な人間的なメッセージを聴き取れる、という感覚を持っているのだと思う」。バレンボイムは日本では聴衆がそうあり続けていることを嬉しく思っているとのこと。
(Berliner Morgenpost, 03.02.2016, Volker Blech)

バレンボイムが考える日本の聴衆

 話がそれるが興味深い話題なので見てみよう。バレンボイムが日本の聴衆に言及しているこんな記事を見つけた。演奏ツアー出発直前に出た記事である。

「指揮者バレンボイム:日本の聴衆は特別に静か」

「シュターツカペレ・ベルリン、アジアツアーへ。バレンボイム:演奏会に行くことには日本では儀式的な意味合いがある」

 バレンボイムは「日本の聴衆はおそらく他のどんな聴衆よりも静かに音楽を聴く」と言っている。そして彼自身1960年代から日本の聴衆に感銘を受けていると。日本の聴衆はとても集中していて敬意に満ちていて、「遊びとして楽しむために演奏会に行くようなそういう聴衆ではありません。ここ[=ベルリン]では演奏会に行ってそれから美味しい食事に行ったりとか何かそういうことをしますが、こことは全然違うのです」。*5

 「演奏会に行くことは、日本においては儀式的な意味合いのようなものを持っている」とバレンボイムは考えていると。日本の聴衆はクラシック音楽に出会ったのは遅かったとしつつも、「しかし彼らは、重要な使命と対峙しているのだということを評価することを知っているな、という感覚を芸術家に与えるのです」。
(dpa/Berliner Morgenpost, 22.01.2016 und dpa/Musik Heute, 22.01.2016)

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*5 たしかに、ここ(ウィーン)とは全然違うと言える。私の体感では、東京>>ベルリン>>>>>>ウィーン、って感じ。ウィーンの聴衆、演奏会の雰囲気については毎回の感想の中でちょくちょく書いているが、まあ...。もう慣れたけど。

「ブルックナー・ツィクルス in Tokio:なぜ日本人たちは西洋のクラシック音楽を好むのか」(Deutsche Welle)

 ツィクルスが終了して数日後にドイツの放送局ドイチェ・ヴェレ(DW)から「ブルックナー・ツィクルス in Tokio:なぜ日本人たちは西洋のクラシック音楽を好むのか」("Bruckner-Zyklus in Tokio: Warum Japaner westliche Klassik lieben")と題したの記事(2016年2月21日)が出た。

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(Foto: picture-alliance/dpa/M. Gambarini)

 「ひとつの演奏会の一番安いチケットですら100ユーロ以上する」。「しかし日本人にとってクラシック音楽はかけがえのない価値があるものだ」と。

日本におけるバレンボイム:尊重と尊敬 f:id:jutta_a_m:20160303051328j:plain
(Foto: DW/J. Liebing)

 バレンボイム指揮のブルックナー・ツィクルスはとてもエネルギッシュ、しかし指揮の動きは控えめ、それは指揮者とオケの緊密な関係がなせる業だと書かれている。記事の筆者はシュターツカペレ・ベルリンとバレンボイムは20年以上の活動のなかで一体となったとし、「アントン・ブルックナーの交響的世界をこれほどまでに確信をもって聴かせることのできるオーケストラはおそらく他にほとんどないだろう」と書いている。

 日本がどのように歓迎しているかの一例として地下鉄の駅に掲示されたポスターの写真を載せている。

ブルックナー・ツィクルスを称える聴衆 f:id:jutta_a_m:20160303051329j:plain
(Foto: DW/J. Liebing)

 日本の聴衆の感動の大きさ、20分続く拍手とスタンディング・オベーションのほか、多くのクラシック音楽ファン、バレンボイムファンが楽屋口で「辛抱強く1列になって」待っていたことに触れられている。

 全9公演のチケットを購入した人たちが入ることができたプローベの際にバレンボイムは、どうしてブルックナー交響曲を時系列に並べることにしたかについて話したという。バレンボイムが言うには、そうすることで聴衆も音楽家もブルックナーの作曲上の発展を追体験できるはずで、それはつまり[聴衆と音楽家との]共同の旅だと。(記者会見でも語ったように)バレンボイムは言う「2つか3つのブルックナーの交響曲を体験すると共通点が聴こえてきます。しかし全曲ツィクルスを聴くと違いにも気づくのです」と。

ヨーロッパのクラシック音楽:好まれるのは多くの理由から/咳も咳払いもないクラシック音楽演奏会

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(Foto: picture-alliance/dpa)

 日本でヨーロッパのクラシック音楽が好まれているのには多くの理由があることについて触れられた後、日本の聴衆が(ここでも)話題となっている。すでに16回日本で演奏しているバレンボイムは日本の聴衆が音楽に向ける真面目さと注意力を称え、「ここには敬意があり、これはヨーロッパではいまやまれにしかお目にかからない」と述べている。そして記事の書き手は、実際聴衆は非常に集中して静まり返ってひっそりと耳を傾けるとし、「風邪をひいている者は、医者に行くのであり、演奏会には行かないのだ」と書いている(さすがに言いすぎ?笑)。

 記事はこう締めくくられている。「ブルックナーの第9番が終わった後、拍手は鳴りやもうとしなかった。この曲はブルックナーにとっては人生との別れであったが、シュターツカペレ・ベルリンにとっては東京との別れであった」。
(Deutsche Welle, 21.02.2016, Jürgen Liebing)



演奏会評 交響曲第4番&第7番

 見つけた演奏会評を。以下は第4番と第7番についての評(読売新聞、2016年3月1日、第4番/三宅幸夫、第7番/沼野雄司)。

 (自分の2010年の鑑賞体験と照らし合わせて)頷きつつ読んだ。的確な評だと思う。第4番の評の中の「オペラのオーケストラだけあって、あふれんばかりの表出力だが、その分だけアンサンブルの肌理きめが粗くなった感は否めない」や、第7番の方の「一糸乱れぬ、というタイプの団体ではない。むしろ響きは意外なほどザラザラした手触りだし、随所の独奏も鮮やかとは言いがたい」といった記述に冷静さを見る。批評の内容全体としては演奏を高く評価し、称えている。

貴重な企画が実現:公開インタビュー「ダニエル・バレンボイム氏を迎えて」

 演奏会とは別に貴重な企画が実現した。日本ワーグナー協会と東京ドイツ文化センター(Goethe Institut)の共催により2月13日に公開インタビューが行われた。

公開インタビュー「ダニエル・バレンボイム氏を迎えて」
東京ドイツ文化センター ドイツ文化会館ホール
2016年2月13日(土)
(→東京ドイツ文化センター 催し物カレンダー(公開インタビュー「ダニエル・バレンボイム氏を迎えて」)
(この日はブルックナー第4番。バレンボイムは終演後サントリーホールから東京ドイツ文化会館に)

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© Naoko Nagasawa


 貴重も貴重だ。行けなくて残念。行った人が羨ましい。(歴史的に意義深い公演が行われる際などはこういった催しがあるので要チェック。例えば二期会が2013年にアリベルト・ライマン『リア』を日本初演する少し前にライマンが来日、同じく東京ドイツ文化センターのホールで対談と彼の歌曲の演奏が行われた。これには行った。作曲家の細川俊夫もいた)

 残念、どんな内容だったのかなぁと思っていたところ...、素晴らしい、紹介されていた(オペラ・エクスプレス、2016年2月21日)。


 とても読み応えのある内容。ひとつ引用するとすればこの個所。

作曲家の中には、歴史的に重要な意味を持つ人がいます。素晴らしい音楽を沢山書いたが、しかし歴史的な意味はあまりない人もいます。自分の前に何が行われたかを全て知り、それをまとめることが出来る人もいます。未来への道のりを示すことの出来る人もいます。ワーグナーは、これら全てを成し得た数少ない作曲家なのです。例えば素晴らしい音楽を書いたメンデルスゾーン―彼のヴァイオリン協奏曲や八重奏曲、無言歌集がなかったら、私たちの音楽世界はとても貧しいものになっていたでしょう。しかし、歴史的意味という点では彼が書かなかったとしても変わりはありません。彼の作品はどれも美しく完璧なものばかりですが、そこに歴史的重要性はないのです。逆の例を挙げると、ベルリオーズがいます。ベルリオーズは音楽的な構造という点では、メンデルスゾーンほど完璧ではありません。しかし、彼やフランツ・リストらがいなければ、その先にワーグナーは存在しなかったのです。どんなに美しい作品を書いたとしても、一人一人の作曲家が持つ歴史的な意味は対等ではありません。(ダニエル・バレンボイム(通訳:蔵原順子)、オペラ・エクスプレス、2016年2月21日)

 そしてもうひとつ引用するとすればここ。

日本を含め世界中に熱心なワーグナー協会がありますが、何故とりわけワーグナーに対しての崇拝が極端なのでしょうか?日本だけの現象ではないのですが、ワーグナーには完全に身を捧げなければ理解できないと世界中の多くの人が思うようです。その熱意は他の作曲家には向けられない。私自身自分の時間をどれだけワーグナーと過ごしたかは分かりませんし、ワーグナーを本当に愛しています。しかし、モーツァルトを弾いている時ワーグナーのことは考えませんし、ブーレーズに向き合っている時も同様です。ワーグナーだけに献身的な愛を注ぐことは、決して彼のためにはなりませんし、作曲家の立場が向上することにもなりません。ワーグナーは神ではないのですから。(ダニエル・バレンボイム(通訳:蔵原順子)、オペラ・エクスプレス、2016年2月21日)


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© Naoko Nagasawa


 こうやって当日の公開インタビューの内容を読めるとは、嬉しい。


永く語り継がれる記念碑的演奏会

 バレンボイム/シュターツカペレ・ベルリンにより東京で行われたブルックナー・ツィクルスは日本の、のみならず世界の演奏会史上に残る記念碑的演奏会だった。そもそもこれほど短期間のうちに集中的に連続で演奏することだけでもすごいことで、それをこれほどの指揮者とオケが敢行したということ。ベルリンでまず4番以降の6曲のツィクルス、ウィーンで1番から9番のツィクルス、そして今回東京でツィクルスが行われたということ(東京で行われたこと自体がすごい)。企画として単に面白いだけでなく、バレンボイム/シュターツカペレ・ベルリンによって極めて高い水準の熱演、名演が繰り広げられたこと(は2010年のツィクルス体験と今回聴きに行った人たちの感想から容易に想像できる)。様々な面から見て歴史的、記念碑的なツィクルス、これから永く語り継がれていくことであろう。

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*以下は私が2010年にベルリンで聴いたブルックナー・ツィクルスの演奏録音がBlu-ray/DVDになってすべて発売されたことについての記事

**本記事中のドイツ語原文からの引用は訳者の表記がない限り引用者(=私)の翻訳による。

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