フィルハルモニ記

ドイツ文化・思想の人がオペラ・コンサートなどの感想を中心に書いているブログ

40番とレクイエム

 40番とレクイエム。モーツァルトの最も暗く悲哀に満ちた作品。

 コンツェントゥス・ムジクス/シュテファン・ゴットフリートによるアーノンクール追悼演奏会で聴くことになったが、もとはと言えばこのプログラムを聴くはずではなかった。シーズン前にAboを買っていて、今シーズン最初の定期演奏会として昨年10月に予定されていたベートーヴェンの8番・7番の演奏会に行くはずだった。それがアーノンクールの体調不良により延期された。その後引退発表があり、プログラムが変更されたが、アーノンクールの死を受け、延期されていた演奏会のプログラムは再度変更、40番とレクイエムが演奏されることになった。どちらもこれまで演奏会で聴いてこなかった曲。アーノンクールはもういないが、アーノンクールの精神によるアーノンクールのための演奏で聴く40番とレクイエム。追悼の意を込めた特別な演奏会でついに聴くことになった/なってしまったこの巡り合わせには感じ入るものがあった。


*コンツェントゥス・ムジクス/シュテファン・ゴットフリートによるアーノンクール追悼演奏会(2016年4月17日(2日目))。レクイエム演奏後、一度たりとも拍手の音が鳴ることなく、沈黙のまま演奏会は終わった

 交響曲第40番ト短調。私はこの曲が一番好きだ。モーツァルトの曲の中で、ではなくすべての曲の中で。この曲に魅了され、夢中になって聴いた高校生の頃から「一番好きな曲」の位置を占め続け、ずっと変わらない。それなのに演奏会ではいまだかつて聴いたことがなかった。たまたまというよりも行きたくないから行こうとしてこなかった。プログラムにこの曲を見つけても心の底から期待できないからだ。

 モーツァルトは難しいと思う。マーラーの交響曲の方が難しいだろうがそういう意味ではない。モーツァルトのすぐれた作品では、音がそうある以外にはありえないかのように見事に配置されているようにみえる(丸山眞男がモーツァルトのピアノ協奏曲24番と同じハ短調のベートーヴェンピアノ協奏曲3番を比較して同じようなことを言っている(中野雄『丸山眞男 音楽の対話』)のを読んだときまさにそうだと思った)。少し不自然なところがあるだけでその演奏は途端に聴けたものでなくなってしまうような完璧なまでの音の力学的均整がある。40番はその究極のところにあるのではないかと思う(バーンスタインが講義「答えのない問い」で時間を割いてこの曲を講じているのも謂われのないことではないだろう)。

 好きであるがゆえに、好きすぎるから、わざわざ聴きに行ってがっかりしたくないという気持ちがある。前後の39番でも41番でも、オペラでもピアノ協奏曲でも行かないとまでなるのはなかなかない、というかない。好きすぎて逆に行かない、行けない。こういう感情を持つのはおそらく40番だけだ。

 プログラム後半のレクイエムも聴きに行ったことがなかった。理由は40番とは違うが、演奏会で聴きたいと思わないからという意味では同じだろうか。それがこの上なく「ふさわしい」状況で聴くことになった。

 稀有な巡り合わせでついに聴くことになった40番とレクイエム。だが、これらの曲目を目当てに聴きに行くことは今後もないかもしれない。

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