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フィルハルモニ記

ドイツ文化・思想の人がオペラ・コンサートなどの感想を中心に書いているブログ

ワーグナー『パルジファル』 ウィーン国立歌劇場 2015年4月5日(復活祭日)

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Richard Wagner

PARSIFAL

BÜHNENWEIHFESTSPIEL IN DREI AUFZÜGEN

Adam Fischer | Dirigent

Christine Mielitz | Regie

Stefan Mayer | Ausstattung

Michael Volle | Amfortas

Stephen Milling | Gurnemanz

Johan Botha | Parsifal

Angela Denoke | Kundry

Ryan Speedo Green | Titurel

Boaz Daniel | Klingsor


座席 1階立ち見、第3幕 1階2列9番

3回公演の2日目 Livestream

舞台神聖祝典劇『パルジファル』―聖金曜日の奇跡

 4月5日日曜日。聖金曜日は過ぎたが、復活祭日に舞台神聖祝典劇(と訳されている)Bühnenweihfestspielを観る。素晴らしかった。

 新国立劇場でも今シーズンの開幕の演目として上演されていた『パルジファル』。唯一都合の合う初日のチケットをすぐさま買って楽しみにしていたがウィーン渡航で行けず、だったのでその分も嬉しい。

 グルネマンツのシュテファン・ミリングは、初日は代役に代わったようだが今日は出演。それと、指揮者が今回の3回公演の3日ともペーター・シュナイダーからアダム・フィッシャーに代わった。

 ミヒャエル・フォレ、シュテファン・ミリング、ヨハン・ボータ、アンゲラ・デノケら充実した歌手陣が素晴らしかった。ただ、第2幕の後半ではデノケにやや疲れが見えたか。

 オケもさすがにまじめに演奏していて良い演奏を聴かせてくれたと思う(本当に突き抜けた素晴らしい演奏とはいかなかったが)。全体として十分に素晴らしい公演であった。

 このプロダクションは2004年4月が初演でもう11年になる。プログラムによれば今日が44回目の上演とのこと。演出については特に触れないがひとつだけ驚いたこと。聖杯は最後の場面で割れ、掲げられることはない。

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第1幕後休憩中。オーケストラピットに入っているコントラバスの数は8である。

 復活祭日に、ウィーン国立歌劇場でこの充実した『パルジファル』を観る。観ている最中も観終わった後も気分が高揚しっぱなしであった。

ワーグナー作品における言葉

 ワーグナー自身が書いた、非常に大きな意味を担い、音楽と密接に結びつきつつ響いてくるドイツ語を前にして、気持ちがたかぶっていく。重い、あまりに重い。「これをドイツ語がわからずに観るとは、いったい何なのか」。ワーグナーを観ていつも思うことではあるが、今日この『パルジファル』を観ていてなおさらこの考えが頭の中を巡っていた。私は想像してみる。もし自分がドイツ語がわからなかったら、この『パルジファル』を、作曲家自身が推敲を重ねて深い意味を込めつつ書いた台本を持ち、それが音楽と高度に結びついたワーグナー作品をどう観るのか。

 例えば、私はフランス語ができないが、フランスの劇団がフランス語で上演する演劇を観たとしよう。私はどのくらい理解できるか。あらすじを事前に頭に入れたりして何とか流れをつかんだり、いろいろな言語外情報を感じ取ることはあるだろう。感動することだってあるかもしれない。だがフランス語はわからない。違いは、ワーグナーであれば、言語以外の要素、音楽の割り当てが大きいことで、その分受け取れる情報が多いことにはなる。

 2回の休憩中にたまたま2回とも一緒になったウィーン在住の年配の女性とも話したのだが、もう少し前の時代のイタリア・オペラの場合、あらすじをある程度頭に入れて言葉も単に音として聴き、オーケストラと歌手の歌声や技巧といった音楽面を楽しむような聴き方があって、それは考えられる。だが同じ聴き方はワーグナーでは到底十分とは言えない(と私は今日観ながら改めてこの思いを強くした)。

 言語と音楽の関係は複雑で簡単に論じられないが、オペラに関してモーツァルトが「オペラでは、詩文はまったくもって音楽の従順な娘でなくてはならない」(1781年10月13日、父への手紙)と書いていることは注目に値する。モーツァルトが実際にこの言葉に収まるような作曲をしていたとは思っていないが、この一文はこの時代のオペラ観の一面を示していると言えよう。

 その一方で、ワーグナーがそれまでの「オペラ」に否定的態度を取り、劇のためにあらゆる要素を総合する「総合芸術作品」(Gesamtkunstwerk)を志向したことを思い起こされたい(ちなみに現在、『ローエングリン』よりあとの作品は「楽劇」と呼ばれているが、ワーグナー自身は自らの作品にこの名称(Musikdrama=音楽劇)を用いることはしなかった)。ワーグナーが台本をみずから書いたことは、そうしたコンセプトからすれば当然と言える。ワーグナーをそれまでの「オペラ」のように、すなわち言葉の理解なしに(もちろんそれまでの「オペラ」でも言葉の理解があった方が良いが)鑑賞することは、ワーグナー作品のかなりの部分を見落とすことになる。

 こうしたことが例えば(挙げればきりがないが)、バッハの『マタイ受難曲』や『ヨハネ受難曲』、シューベルトやシューマンの歌曲などにも当てはまるということは言うまでもない。これらなどは言葉がメインとすら言ってよい。

 たくさん鑑賞するとそれだけで知った気になりがちだが(もちろん経験は増えているわけだが)、少し立ち止まって考える必要があるだろう。例えば私がフランス語での演劇を10回鑑賞してはたして何をどのくらい得るか。フランス語を我が物にし、その方面に精通している人物によるたった一度の鑑賞に、私が何回鑑賞したところで(それが私自身の大事な「経験」とはなっても)まったく及ばないだろう。別に及ぶ必要はないわけだが、こうしたことを考えてみることは無駄ではない。

 ワーグナーであれば言葉以外の要素もたいていの演劇よりはもっとあって、言葉がわからなくても(かつての「オペラ」的意味で)歌唱の素晴らしさを評価することは考えられるし、オーケストラだって評価できる、さらにそれ以外の要素もある。だが、向き合う際のある程度の自覚と慎重さはあって良いだろう。私も例えばフランス語歌曲やフランス語オペラであれば、ドイツ語作品を鑑賞するときに比べてより慎重になるし、ならざるを得ない。

 

 ドイツやオーストリアでワーグナー(あるいは他のドイツ語作品)を観る時は、ドイツ語の字幕で鑑賞できるからとてもうれしい。すべて暗記していれば別であろうが、それはさすがに難しい。だからワーグナーなどは、日本で日本語字幕で観るより、ドイツ語圏の劇場でドイツ語字幕で観るほうがはるかに深い体験になる。今日はそれがあまりに深く、重かった。ワーグナーのドイツ語が重くのしかかり、考えさせられた。

ヨーロッパにいて芸術を鑑賞すること

 第2幕後の休憩中に私に救済、いや幸運が。1階の立ち見(ここは値段の割に位置としてはかなり良い)で第2幕まで観たが、その休憩中にあるご婦人に話しかけられ、もう帰るからチケットをあげると言われた。見ると1階2列目ほぼ真ん中、240ユーロ。ありがたくいただき最後の第3幕はその席で。ピットが浅いので、3メートル先にはアダム・フィッシャーが指揮する姿が腰から上は見える。オケも近くに見える。(昨年10月のルドヴィク・テツィエールのソロコンサートの時も開演前にあるフランス人男性が1階5列目のチケットを10ユーロで譲ってくれた。→「ルドヴィク・テツィエール 2014年10月28日 ウィーン国立歌劇場」。奇しくも、このフランス人歌手の演奏会でも言葉と音楽の結び付きを強く感じたのであった。)

 帰宅してもう一度そのチケットをよく見てみると、その女性がこのチケットを購入した日付が**.**.2015と印字されていた。**月**日は私の誕生日。なにか「神聖」なことが起こったと解釈することにする。

 それと「神聖」と言えば。この作品において神聖さを強調したワーグナーは全幕の拍手を禁じたわけだが、それがここウィーンでは第1幕後はしないという形で残っているのを今日実際に見てきた。もちろん、何気なくあるいは知らずにいつも通り拍手してしまう人がいるが、すぐさまあちこちで「シーッ」。すっと休憩に入る。第2幕、3幕後は拍手喝采、ブラヴォー連発。

 それにしてもあのご婦人は、ただそのまま帰ってもいいところをわざわざ立ち見ゾーンに来てチケットあげる人を探していたのだ。それで私を見つけ私にくれた。

 そのご婦人にいきなり「英語話します?」って話しかけられて、(こっちに合わせて英語で話しかけてるのかなと思い)とっさにドイツ語で「はい、ドイツ語と英語を話します」と答えたら "ich spreche kein Deutsch"(ドイツ語で「私はドイツ語が話せません」)とか言ってすっと英語で会話するという変な会話をしていたが、言葉が通じるかどうかというところからでもチケットを渡してあげようと思う感覚がとても気持ち良い。こういうところがヨーロッパの一番好きなところのひとつだ。日本だったら、言葉が通じるかどうかわからなそうな人にチケットをあげるためにまず話しかけないだろう、たいていは。若ければまだしも、年配の方ならなおさら(そもそも(良いか悪いかは別として)途中で帰るのであげるという発想がないだろうが)。

 途中で帰るから誰かにチケットを譲ろうという発想、気持ちがあって、かつ、そのなかでも立ち見で観ている人に良い席で聴いてもらいたいという想いがあって(見ず知らずの人なのに!)、そのためにこれから帰るところであるにもかかわらずわざわざ自分の時間を使ってまで立ち見ゾーンに足を運び人を探す。なんとなくでできる行為ではない。こうした、ヨーロッパにおける「芸術は共有財産」とでも言うような意識の強さはしばしば感じる。これまでも様々な(嬉しい)出来事に巡りあったことを懐かしく思い出した。

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