フィルハルモニ記

ドイツ文化・思想の人がオペラ・コンサートなどの感想を中心に書いているブログ

2015-07-01から1ヶ月間の記事一覧

バッハ オルガン・コンサート 聖ペテロ教会 2015年7月28日(命日/没後265年)

ORGEL UM DREI REKTORATSKIRCHE ST. PETER (PETERSKIRCHE) Péter Kuzsner 28.07.2015, um 15.00 Uhr Johann Sebastian Bach (1685-28.07.1750): O Lamm Gottes, unschuldig. 3 versus BWV 656 Contrapunctus 14. BWV 1080/14 (Die Kunst der Fuga; Nr 14) Vo…

クリスティアン・ティーレマン『ワーグナーと私』(2)序文

私は音楽学者でも社会学者でも歴史家でもありません。私は音楽家です。しかし時々思うことがあります、ワーグナーに通じる鍵を見つけたと。クリスティアン・ティーレマン『ワーグナーと私』 (Christian Thielemann: Mein Leben mit Wagner, Beck, 2012) 序…

クリスティアン・ティーレマン『ワーグナーと私』(1)買ったきっかけとメモ

私の人生において何がまずはじめにあったのか、もはやわかりません。ワーグナーへの思いだったのか、指揮することへの思いだったのか。クリスティアン・ティーレマン『ワーグナーと私』 (Christian Thielemann: Mein Leben mit Wagner, Beck, 2012) 2012年…

アーノンクール『音の話法としての音楽―新しい音楽理解への道』(4)「私たち」の読みかえの試み―「私たち日本人の生活における西洋音楽」

そうして日本のクラシック音楽ファンの誰もが、西洋音楽の価値と演奏について判断し意見を述べることは正当でみずからにその資格があると感じてしまっているのです。 *以下の文章はアーノンクールが書いたものではありません。アーノンクール『音の話法とし…

アーノンクール『音の話法としての音楽―新しい音楽理解への道』(3)「私たちの生活における音楽」解題―「私たち」と私たち

そのような単に「美しい」だけの音楽など、かつて一度も存在したことはありませんでした。 そうして誰もが、音楽の価値と演奏について判断し意見を述べることは正当でみずからにその資格があると感じてしまっているのです。 私がきわめて深く確信しているこ…

アーノンクール『音の話法としての音楽―新しい音楽理解への道』(2)「私たちの生活における音楽」読解(抜粋)

そのような単に「美しい」だけの音楽など、かつて一度も存在したことはありませんでした。 そうして誰もが、音楽の価値と演奏について判断し意見を述べることは正当でみずからにその資格があると感じてしまっているのです。 「私たちの生活における音楽」 中…

アーノンクール『音の話法としての音楽―新しい音楽理解への道』(1)読解への導入

そのような単に「美しい」だけの音楽など、かつて一度も存在したことはありませんでした。 そうして誰もが、音楽の価値と演奏について判断し意見を述べることは正当でみずからにその資格があると感じてしまっているのです。 最初の版が刊行されたのは1982年…

音楽家の墓碑巡り、家巡り、ハイリゲンシュタット散策

暑かったが良い週末だった。 土曜日はたまたま早く起きたので午前中に墓地に行くことにした。 ・中央墓地へ、ベートーヴェン、シューベルト、ブラームスたちの墓碑とモーツァルトの記念碑 ・その後、聖マルクス墓地へ、モーツァルトが埋葬されたとされる位置…

音楽家の著作―アーノンクールとティーレマン

5月に音楽関連の本を2冊買った。音楽関連の本を買うのもかなり久しぶりだし、記事を書くのも久しぶり。かつてゲーテの音楽思想に関する本を買って少しずつ紹介しようと思って、何回か記事を書いたがそのうちやらなくなった。それ以来。さらに音楽家の本とな…

TOP