フィルハルモニ記

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クリスティアン・ティーレマン『ワーグナーと私』(2)序文

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私は音楽学者でも社会学者でも歴史家でもありません。私は音楽家です。しかし時々思うことがあります、ワーグナーに通じる鍵を見つけたと。
クリスティアン・ティーレマン『ワーグナーと私』

(Christian Thielemann: Mein Leben mit Wagner, Beck, 2012)

 

 

序文

 

 15歳か16歳の頃までは、リヒャルト・ワーグナーの音楽の他にグスタフ・マーラーもたくさん聴いていました。思春期の者にとって彼の音楽はたしかに文字通り懐にすっと入ってきます。しかしあるとき、ワーグナーと多くの関わりがありマーラーと正反対の人物であるアントン・ブルックナーに出会って感じました、これら2つの心臓は私の胸の中で長くは上手く折り合わないだろうと。

 

私は選ばなければなりませんでした、生に肯定的な者か生に否定的な者か、理想郷か誘惑か、つまりワーグナーかマーラーか。私はワーグナーを選びました(そしてブルックナーを)。この選択を私は繰り返しするでしょう、マーラーへの欲求が再び静かに私の中に呼び起こされるときには。

 

 この決断の結果として私の芸術家としての人生が形作られてきました。この本ではそのことについて語りたいと思います。なぜ人生をワーグナーと共にすることに価値があるのか。そして、ワーグナーの何が人を怒らせうるのか。バイロイト祝祭劇場やその他別の場所でワーグナーを指揮するとはどういうことなのか。出来栄えの良い上演には何が重なり合わさらなければならないのか。何が個々のオペラ作品を特別なものにしていて、それはワーグナー世界のどこに位置しているのか。こういった問いやそのほかの問いも立てました。私はそれらについて可能な限り実践の方から答えたいと思います。つまり、私の人生、そして私の職業的、個人的経験からです。

 

 指揮者が主張するのは、概して文章を書くことによってではありません。ワーグナー自身は書きました、それも情熱的な、度を超すような仕方で。そのようにして自らを探し、見つけていきました。フルトヴェングラーも書きました、とても賢く。また、セルジュ・チェリビダッケによっては一種の「音楽現象学」のようなものすらが語り継がれていますし、ミヒャエル・ギーレン、ピエール・ブーレーズ、ダニエル・バレンボイム、インゴ・メッツマッハーにも音楽に関する本があります。指揮者があるたったひとりの作曲家に[ついて](きわめて字句通りの意味で)専念する/書くことは、むしろ稀でしょう。私はここでそれを2つの理由からしたいのです。ひとつ目はすでに挙げました。ワーグナーを通じて今日ある私の音楽的思考と音楽的感覚が成ったのです。ワーグナーは私を私自身に向き合わせました。それは経験として必ずしも気持ちのいいことではありませんでしたが、一方で感情的にものすごく緊密化しました。このプロセスがワーグナーと、同様に私のとても近くにいる他の作曲家たち、バッハはもちろん、ベートーヴェン、ブルックナー、リヒャルト・シュトラウスとを分け隔てるのです。

 

 ふたつ目の理由は聴き手に関わります。ワーグナーの聴き手はみな(そしてワーグナーの聴き手になりたいと思う者はみな)、ワーグナーの仕事場はどうなっているのかということを知りたいというまっとうな、いやそれどころか避けがたい関心をもっていると思います。作曲家の仕事場そして演奏者の仕事場の中のことです。そこにあるのは奇跡的なことや特別なことばかりではなく、人が知りうる、使いこなせる、説明できる物事もたくさんあります。これらを私の視点から説明してみたいのです。新しい、誤った神話を広めないためにです。そしてそのことで内容が上辺だけのものと取り違えられないようにするためです。2013年5月22日のワーグナー生誕200年に際して、出版の波が押し寄せるでしょう(ワーグナーに関する文献は現在でもすでに図書館を埋めていますが)。私は音楽学者でも社会学者でも歴史家でもありません。私は音楽家です。しかし時々思うことがあります、ワーグナーに通じる鍵を見つけたと。この本を読みながらもしワーグナーへの扉がいくらかより開いたとしたら、幸いです。

 

 

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*翻訳は私による。

 

 

((3)に続く)

 

Mein Leben mit Wagner

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