フィルハルモニ記

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RE-SOUND Beethoven 『プロメテウスの創造物』&交響曲第2番 ホーフブルク宮殿 2015年4月3日

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RE-SOUND Beethoven
2015年4月3日
ホーフブルク宮殿
大レドゥーテンザール(Großer Redoutensaal)

『プロメテウスの創造物』(„Die Geschöpfe des Prometheus“, op. 43)

交響曲第2番 ニ長調 op. 36

導入講演
ウィーン国立音楽大学Markus Grassl 教授:「当時ひとはベートーヴェンをどのように聴いていたか」(„Listening in Vienna: Wie hörte man Beethoven zu seiner Zeit?“)

8 (Vn1), 6, 4, 4, 3  座席 27列1番

前回のRE-SOUND Beethovenはこちら(RE-SOUND Beethoven 交響曲第7番&『ウェリントンの勝利』 オーストリア学術アカデミー 2015年3月14日

RE-SOUND Beethoven第4回―『プロメテウスの創造物』と交響曲第2番

 RE-SOUND Beethoven第4回にあたる今日の公演では、どちらの作品も初演場所が(厳密には)ここではない。『プロメテウスの創造物』は1801年3月28日にホーフブルク劇場(現在のブルク劇場。1888年より現在の場所)で、交響曲第2番は1803年4月5日にアン・デア・ウィーン劇場で交響曲第1番 op. 21、ピアノ協奏曲第3番 op. 37(初演)、オラトリオ『オリーブ山のキリスト』 op. 85(初演)とともに初演された。どちらの劇場も建て直されているので当時とは違う。

 どちらの初演会場も建て直されているということで、初演された場所で演奏するというプロジェクトを厳密に実行するのは不可能である。ただ、『プロメテウス』の方はホールの名前としてはこのレドゥーテンザールで、何より「位置としての場所」としては「ここ」で初演されたと言える。

 

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ヨーゼフ2世(1741-1790)の像とレドゥーテンザール入り口(右隅)。像の裏にあるのはオーストリア国立図書館プルンクザール。この写真には写っていないが左には、マリア・テレジアとフランツ1世、マリーアントワネットとルイ16世(代理人)、マリー・ルイーズとナポレオン(代理人)、フランツ・ヨーゼフ1世とエリーザベトが結婚式を挙げたアウグスティーナー教会がある。


Redoutensaal―仮装舞踏ホール

 今日の会場であるレドゥーテンザールが位置する場所には、もともと1705年にフランチェスコ・ガッリ・ダ・ビビエーナ(Francesco Galli da Bibiena, 1659-1739)によってバロック様式で建てられた宮廷劇場(Hoftheater)があった。レドゥーテンザールは、マリア・テレジア(1717-1780)が王宮ホーフブルク(Hofburg)内に仮装舞踏会場(Redoutensaaltrakt)を設置するため、ジャン・ニコラ・ジャド(Jean Nicolas Jadot, 1710-1761)*1 に仮装舞踏(„Redoute“)用の大小2つの会場を持つ形に改築を委託したことで生まれた(1744-1748年)。1788年頃には大ホールの2階席部分が拡張された。演奏会に先立って行われた講演によれば、立ち見を合わせて5000人の聴衆が入ることもあったとのことである。

 

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大レドゥーテンザール:皇帝ヨーゼフ2世とパルマ公女イザベラの結婚式に際しての劇上演(1760)(本プロジェクトのプログラム冊子、32頁より)


 交響曲第2番も、初演こそアン・デア・ウィーン劇場だったが、その後ここでも演奏された。位置としての場所に着目すれば、どちらの作品もこの場所で鳴り響いたことは確かで、このプロジェクトの „resound“というコンセプトに適っていると言える。交響曲第8番 op. 93もここで初演された。その他、シューベルトの未完成交響曲もここで1865年に初演された。 

 ちなみにホールは1992年に焼失し、再建された。現在のホールに当時の趣はほとんどない。

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*1 交響曲第7番と『ウェリントンの勝利』(→前回のRE-SOUND Beethoven(交響曲第7番&『ウェリントンの勝利』))の初演場所、旧ウィーン大学講堂(die Aula der Universität Wien)も彼の設計。

 

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ホールは1992年に焼失し、再建された。当時の趣はほとんどない。


『プロメテウスの創造物』と交響曲第2番

 『プロメテウスの創造物』は、舞踏家で振付師のサルヴァトーレ・ヴィガーノ(Salvatore Viganò, 1769-1822)がギリシャ神話のプロメテウスを題材として台本を書き、作曲をベートーヴェンに依頼したことがきっかけで成立した。2人がいつごろ知り合ったのかは定かではないが、ベートーヴェンが「ヴィガーノのメヌエット」(„Menuett à la Viganò“)WoO 68を作曲していることから、すでに知り合いであったようだ。ちなみに、第14曲に「カッセンティーニ氏のソロ」とあるが、それは彼が率いるバレエ団のプリマ、マリア・カッセンティーニのことである。

 ベートーヴェンが書いた音楽は「熱狂的とまでは言えないまでも好意的に受け入れられた」*2 ようだ。ただ、ある批評文には「期待に応えられるようなものでは全くなかった」と書かれている。*3 

 交響曲第2番の作曲は初演の1年前の1802年4月には終えられていた。「ハイリゲンシュタットの遺書」が書かれたのはその年の10月のことである。交響曲第2番の自筆譜はいくつかを除いてほとんど残っていない。

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*2 平野昭『ベートーヴェン』(音楽之友社)、2012年、60頁。
*3 「音楽には日頃聴けないような優れた点がいくつか認められたものの、期待に応えられるようなものでは全くなかった」(1801年5月19日付の「エレガンテ・ヴェルト」誌)(引用は平野昭『ベートーヴェン』、60頁による)。



当時の演奏会―ベートーヴェンはどのくらい聴かれていたか

 バレエ『プロメテウス』は、ボンのベートーヴェン・ハウスのウェブサイトによれば、初演時の1801/02年シーズンに初演を含め合計29回、平野昭『ベートーヴェン』によれば年内に14回、翌年に13回の合計27回上演されたとのことである(60頁参照)。いずれにせよ当時としては異例の多さである。

 ここレドゥーテンザールでは、1795年からベートーヴェンが没する1827年までに、彼の作品の公演が43回あった。そのうち交響曲が含まれるものが25回である。特に交響曲第7番 op. 92と『プロメテウス』序曲がしばしば演奏されたようだ。

演奏を聴いて

 演奏会専用のホールではないのであまりいろいろ言っても仕方ないが、響きがあまり良くなかった。天上が高く音が飛んでこない。天井に絵がかかっており、それが反響を弱めてもいるのだろう。まあそれは仕方ないとして、現在のこのホールには当時の趣が全くないので、前回のような高揚感がない。言ってしまえば、下手なオケの下手な演奏を演奏会用ではないホールで聴いているだけの話だ。前回のように、貴重な場に居合わせている、という感覚を感じることも残念ながらあまりなかった。帰り道に思ったが、当時のそのままの場所で、というのはやはり難しい。そのままであれば時代遅れになりそもそもなくなってしまう。今でも使われていれば、今使うために改良されたりして現代風になってしまう。

 今日の演奏会で良かった点を挙げるとすれば、『プロメテウスの創造物』を全曲実際に聴くことができたことくらいか。初演当時の人々は『英雄』をまだ知らない耳であのフィナーレを聴いていたのだな、とか、当時この作品を知った上で『英雄』を聴いた人はさぞ驚いただろうな、などと思いつつ。『プロメテウス』が非常に多く上演されたことに触れたが、そのこととベートーヴェンが『プロメテウス』フィナーレの楽想を『英雄』第4楽章に用いたことは無関係ではないと思う。少なくとも、『プロメテウス』の反響が全く無いような状況であれば、評判の芳しくない作品からその主題を使おうとはなかなか思わないだろう。

 音楽は、実演で聴いてもやはり退屈。演奏されないのも当然のことだろう。お金と時間を使って演奏会に行って、こんな音楽に1時間も使ってられないよ、といったところ。同じ1時間があれば、何か序曲と協奏曲の組み合わせ、あるいは大きな交響曲だって取り上げられるのだから。

 

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*記事を書くにあたって、このプロジェクトのプログラム冊子にある今回の解説(„Zum Konzertprogramm 3. April 2015“, Carolin Krahn)を参照した。

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